天安門事件は中国語で六四天安门事件(liùsì tiānānmén shìjiàn:リゥスーティエンアンメンシージエン)と言います。
この天安門事件はどういった経緯で発生したどのようなできごとだったのでしょうか。
詳しくみてみましょう。
天安門事件とは
天安門事件(英語訳:Tiananmen Square protests)とは、北京の天安門広場で発生した民主化デモのことです。
天安門事件は1976年4月5日と1989年6月4日の2回発生して、それぞれ第一次天安門事件、第二次天安門事件と言います。
一般的に日本では第二次天安門事件の方が有名です。
事件名 | 発生日時 | 流れ |
---|---|---|
第一次天安門事件 | 1976年4月5日 | 周恩来追悼がきっかけ、四人組の引き下ろし |
第二次天安門事件 | 1989年6月4日 | 民主化推進派の胡耀邦の死去がきっかけ、民衆の民主化要求 |
発生場所の天安門広場
天安門広場は北京にある広大な広場です。明の時代から天安門広場の原型が存在しており、その大きさから50万人も収容可能です。
それでは、天安門事件を順に解説していきます。
第一次天安門事件(四五天安門事件)
第一次天安門事件は1976年4月5日に北京の天安門広場で発生した、民衆と政府が衝突した事件です。文化大革命を指導した四人組を引き下ろす声が上がりました。
また、同年1月8日に死去した周恩来のために民衆が集まっており政府批判などを行っていたため、政府が弾圧します。
事件の背景と流れ
当時、周恩来は中国共産党のナンバーツーであり、ニクソン訪中時も一緒に会談していました。もちろん、トップは毛沢東で、鄧小平は周恩来と同じくらいの力関係で対立していました。
また、中国の国民は毛沢東が行った文化大革命について否定的だったので、毛沢東から周恩来に期待感が移っていたところでした。しかし、その矢先の1976年1月に周恩来は死亡してしまいます。
そして、4月4日は中国の清明節(せいめいせつ)で、死者を弔う日です。この日に周恩来のために2万人が集まり、弔いました。また、エスカレートして政府への批判演説もありましたが、当局はこれを取り締まり、花輪なども撤去します。
これに火がついて、さらに政府不満のデモは激化します。
一方、文化大革命を毛沢東と近い距離で推進したのが四人組という人物たちで、その中心となっていったのが張春橋(ちょうしゅんきょう)です。
文革の失敗もあって張春橋をよく思っていなかったため、民衆は周恩来を称賛する一方で、デモは張春橋を引きずり下ろす意味もありました。
事件の結果
中央政府はこのデモを鄧小平が起こした革命運動と責任転居して結論づけ、鄧小平を解任させます。また、第一次天安門事件には、1万人ほどが抗議に参加し、3000人の武装警察を動員して鎮圧にいたりました。
しかし、運動は北京だけではなく全国に広がってしまい、四人組も失脚します。
第二次天安門事件(六四天安門事件)
胡耀邦(フー・ヤオパン)は元総書記ですが、1989年4月8日に心筋梗塞で倒れて4月15日に死去します。これがきっかけとなり、第二次天安門事件が起こりました。
事件の背景と流れ
胡耀邦は1986年に人民選挙を巡って学生デモが起こった際に、容認したとして責任を問われて総書記を1987年に辞任します。
もともと、胡耀邦は人権や民主主義といった価値観を重視するリーダーだったため、総書記時代に政治運動の自由化の動きがあり、北京の学生や知識人から支持がありました。
そのため、1989年4月のに胡耀邦が死去した時、多くの人が追悼集会に参加しました。それが段々と民主化を求めるようなデモになります。
また、胡耀邦の後を継いだ趙紫陽(ちょうしよう)も胡耀邦に近い考え方の持ち主でした。鄧小平によって趙紫陽が総書記になってから、5月に趙紫陽は胡耀邦の死去と民主化のデモが起こった天安門広場まで出向きます。
その時に趙紫陽は「来るのが遅かった」という言葉を残しています。ちなみに、デモを行う学生リーダーは王丹(おうたん)で、後に逮捕されアメリカに亡命しています。
また、この時にソ連からゴルバチョフが訪中していました。
事件の結果
5月20日に国と統治権を軍に一部移行させる戒厳令が出されます。デモ隊と軍が睨み合う事態となっていましたが、影の権力者であった鄧小平は「党の指導と社会主義を根本から否定している」として対話を一切拒否します。
それからついに6月3日に抵抗するデモ隊に対して発砲して、4日までに2000人のデモ隊が死亡しました。戦車が民衆の前に出てきてデモを鎮圧する映像が世界中で流れます。
この映像が世界でスムーズに放送されたのは、ちょうどゴルバチョフが中国を訪問するため、多くの記者が中国入りしていたからです。この映像を見た世界各国は人権弾圧と非難して経済制裁をし、日本も円借款を中断します。
天安門事件からの復帰
天安門事件が起こり、世界各国は中国に経済制裁を加えます。これにより、中国の改革開放は停滞しますが、1992年に鄧小平は武漢、深圳、珠海、上海をまわり、南巡講話を発表します。
この談話は改革を嫌う保守層を押さえ込み、外資導入をさらに加速させる狙いがありました。これをきっかけに市場経済化、グローバル化が進みました。
一方で、欧米を中心とした各国が経済制裁を行う中、日本は「中国の国内問題であり中国の非難には限界がある。そして、制裁は中国の孤立化を招くので得策ではない」と制裁に反対していました。
日本は円借款を一旦延期しましたが、1990年7月には再開しています。また、同年11月には当時の海部俊樹首相に天皇訪中を招請していました。そして91年6月の日中外相会談で天皇訪中を正式に招請し、同年10月には天皇訪中が実現しました。
この裏には、「日本の天皇が中国を訪問すれば、西側諸国の制裁を解除でき国際社会に復帰できる」という中国の思惑もあって、これは大成功して現在の中国の地位獲得へ繋がっています。
LINEの乗っ取りと天安門事件
2014年ごろに、LINEのアカウントが乗っ取られて友人から突然「iTunesカードを買ってきてほしい」というような詐欺事件が発生します。
この事件の犯人は中国系の人で「天安門事件」とメッセージを送ると、返信が返ってこなくなります。ちなみに、中国のネット社会では天安門事件に関することを書き込むとすぐに削除されて、関連の投稿は見えなくなります。
天安門事件を知る映画
天安門事件が題材になっている代表的な映画は3つあります。
- 天安門、恋人たち
- 天安門
- Moving the Mountain
天安門、恋人たち
天安門、恋人たちは恋愛映画です。
田舎から北京の大学に進学したヒロイン、ユーは男子学生のチョウと付き合います。そして、彼らは天安門の民主化運動に巻き込まれて行き、離れ離れになります。何年経ってもお互いを忘れらないふたりを描いた作品です。
天安門
天安門は1989年6月4日に起こった天安門事件を描いたドキュメンタリー映画です。当時の資料とインタビューをもとに構成されているので、貴重な映像資料でもあります。
Moving the Mountain
Moving the Mountainは1989年6月4日に起こった天安門事件を描いたドキュメンタリー映画です。参加者のインタビュー、そしてその後の人生や当時のニュース映像などを織り交ぜた構成になっています。
まとめ
天安門事件は中国の現代史上でも大きなターニングポイントになりました。
中国には民主化を求める声とリーダーがいたという歴史もあります。
今後の中国を見る上で大切なできごととなりますね。ぜひ、参考にしてみてください。
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