毛沢東(中国語:Máo Zédōng、マオザードン)は大躍進政策を行った政治家ですが、遺体はミイラになっています。
毛沢東の遺体はどこにあって、蒋介石とはどういった関係があったのでしょうか。
本人のプロフィールと合わせて紹介します。
毛沢東の遺体は永久保存されている
毛沢東の遺体は、北京の天安門広場にある毛主席紀念堂(もうしゅせききねんどう)で永久保存されています。遺体は防腐処理されており、生きている時と同じ姿で残っています。
また、毛沢東の遺体は一般人でも閲覧可能です。毛主席紀念堂に身分証を持っていけば、実際に閲覧できますが、カメラの持ち込みは現金なので気をつけましょう。
毛沢東の死因
1976年9月9日に心筋梗塞で83歳で亡くなる
毛沢東は、1976年9月9日、北京で83歳で亡くなりました。公式発表によると、死因は心筋梗塞とされています。彼の死は中国国内外で大きな衝撃を与えました。
晩年にパーキンソン病や肺気腫を患う
晩年の毛沢東は、パーキンソン病や肺気腫など、さまざまな病気を患っていました。特にパーキンソン病の症状は重く、晩年は車椅子での移動を余儀なくされていました。これらの病気が彼の体力を大きく消耗させたのは確かです。
死因に関する様々な憶測が存在
毛沢東の死因には様々な憶測が存在します。公式には心筋梗塞とされていますが、他にもいくつかの説があります。
- 暗殺説: 政敵による暗殺であるという説
- 医療ミス説: 適切な治療を受けられなかったために死亡したという説
- 自然死説: 病状が悪化し、自然に死を迎えたという説
これらの説はいずれも確証がなく、真相は未だ謎に包まれています。
毛沢東の死後、中国は鄧小平を中心に改革開放政策を推進
毛沢東の死後、中国は鄧小平を中心とした改革開放政策へと舵を切ります。この政策は中国経済の飛躍的な発展を導き、中国を世界大国へと押し上げました。
しかし、毛沢東時代の政策による犠牲者や、文化大革命の混乱の影響は依然として残されています。現代中国においても、毛沢東の功罪については議論が続いています。
毛沢東はどんな人?経歴紹介
毛沢東は中国共産党を創立した人のひとりで、中華人民共和国を建国しました。
生い立ちから青年期
毛沢東は1893年の清の時代、湖南省にて生まれます。他に兄弟はいましたが、亡くなってしまったため長男として育てられます。
青春時代は労働と勉学に打ち込み、14歳で結婚しますが妻は赤痢ですぐに亡くなります。そして、辛亥革命が発生した後に中学に入学してアダム・スミスやモンテスキューなどの思想に触れます。
学校を卒業した後は中学校で歴史教師となります。この頃は出版事業も行い生活も安定していました。また、同時期に再婚します。
政界入りから国民党を破るまで
毛沢東は1921年に第1回中国共産党全国代表大会に出席し、1923年には共産党と国民党が協力し合う国共合作の方針が決議されます。
そして、1924年に中国国民党全国代表大会に出席した後に、国民党上海支部の幹部になりますが、1927年に上海クーデターが起こり国共合作は崩壊します。それから毛沢東は農民と武装蜂起しますが、失敗します。
その後、湖南省や江西省などで地主や富農の土地や財産を没収して貧しい農民に配分する土地革命を行います。
そして、国民党から攻撃を受けて窮地に立たされますが、蒋介石を拉致した1936年の西安事件がきっかけで共産党と国民党は再び手を組むようになります。1937年には日中戦争が起こり、国民党が日本と闘う一方で共産党は戦力温存に走ります。
毛沢東は1940年に「新民主主義論」を書き、このときに理想の国家を体系化しました。そして、1945年には日本が降伏しますが、その一方で共産党と国民党の対立が激化し国共内戦へと発展します。
国共内戦では、 毛沢東は農地革命を行い農民の支持を集めながら、ゲリラ戦を行い蒋介石を圧倒して山岳地帯へ追い込み体力を消耗させます。また、ソ連の援助を受けて蒋介石率いる国民党を台湾に追い込むことに成功しました。
中華人民共和国の建国から死亡するまで
毛沢東は1949年10月1日に北京の天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言します。
毛沢東は中華人民共和国建国当時、社会主義を将来の目標として1950年に軍事と経済で協しあう中ソ友好同盟相互援助条約を結びます。そして、同時期の朝鮮戦争では北朝鮮に軍を出兵します。
それから1953年にソ連の力を借りて5カ年計画を行い中国の工業化を行います。結果的に成功しましたが、同時期にソ連では「スターリン批判」が起こってソ連と関係が悪化し、疑心暗鬼に陥った毛沢東は50万人以上を投獄させます。
そして、1958年にソ連抜きで大躍進政策を行い、失敗します。
それから文化大革命を起こして権力の座を取り戻そうとします。
また、冷戦下で米ソ対立が激化する中、1972年に米中が接近してニクソンと毛沢東は会談をこないます。それから同年に日本の田中角栄とも会談を行い国交を樹立します。
そして、1976年9月9日、82歳の時に北京の自宅で死亡するのでした。その後の中国は鄧小平が指導する時代になります。
毛沢東は何をした人物?
毛沢東は以下のようなことを行いました。
- 中国共産党の創設メンバーの一人として、中国革命を勝利に導く
- 中華人民共和国の建国:1949年に建国を宣言し、初代主席に就任
- 社会主義政策の推進:土地改革、工業化、農業集団化などを実施
- アジア解放運動への影響:中国革命の成功がアジア各地の植民地解放運動に影響
それでは順番に解説します。
中国共産党の創設メンバーの一人として、中国革命を勝利に導く
毛沢東は、20世紀中国史を代表する革命家・政治家であり、中華人民共和国の建国者として知られています。
彼は中国共産党の指導者として、中国社会に大きな変革をもたらしました。特に、中国共産党の創立に参画し、党の指導者として中国革命を勝利に導きました。
中華人民共和国の建国:1949年に建国を宣言し、初代主席に就任
1949年、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言し、初代主席に就任しました。
これは中国の長い歴史の中で非常に重要な出来事であり、彼のリーダーシップのもとで新しい国家が形成されました。
社会主義政策の推進:土地改革、工業化、農業集団化などを実施
毛沢東は、土地改革、工業化、農業集団化などの社会主義政策を推進し、中国の近代化を図りました。
これらの政策は中国の経済と社会に大きな影響を与え、多くの人々の生活を変えました。
アジア解放運動への影響:中国革命の成功がアジア各地の植民地解放運動に影響
毛沢東の指導下での中国革命の成功は、アジア各地の植民地解放運動に大きな影響を与えました。
彼の成功は他の国々の独立運動にもインスピレーションを与え、広く影響を及ぼしました。
評価と議論
毛沢東の功績は大きく評価されていますが、同時に、その政策による犠牲者も多く、文化大革命などの負の側面も指摘されています。
彼の功罪については、現在も議論が続いています。
毛沢東と文化大革命:10年間中国を揺るがした激動の時代
毛沢東は文化大革命を行いました。
どういったものなのか詳しくみてみましょう。
文化大革命の背景
文化大革命は、1966年から1976年までの10年間、中国を揺るがした大規模な政治運動です。
毛沢東主席が主導し、中国社会の変革と共産党の権力強化を目指しましたが、多くの犠牲者と混乱を生み出す結果となりました。
- 大躍進政策の失敗: 1958年から1961年にかけて実施された大躍進政策は、経済的失敗と大規模な飢餓をもたらした
- 党内対立の激化: 大躍進政策の失敗の責任をめぐって、毛沢東と劉少奇などの党幹部の間で対立が激化した
- 毛沢東の権力基盤の弱体化: 毛沢東は、大躍進政策の失敗により、党内での影響力を失った
文化大革命の経過
文化大革命は以下のような時系列をたどりました。
- 1966年5月: 毛沢東は、北京大学で学生を鼓舞する演説を行い、文化大革命の火蓋を切る
- 紅衛兵の台頭: 学生や青年を中心とした「紅衛兵」が各地で活動し、旧勢力や知識人を弾圧
- 党内路線闘争: 劉少奇や鄧小平などの政敵が失脚し、毛沢東の権力が強化される
- 経済活動の停滞: 文化大革命の影響で、中国経済は大きな打撃を受ける
- 1976年10月: 毛沢東の死去後、文化大革命は終焉を迎える
それでは順番に解説します。
1966年5月: 毛沢東は、北京大学で学生を鼓舞する演説を行い、文化大革命の火蓋を切る
1966年5月、毛沢東は北京大学で学生を鼓舞する演説を行い、文化大革命の火蓋を切りました。
この演説により、学生たちは革命の重要性を認識し、運動が本格的に始まりました。
紅衛兵の台頭: 学生や青年を中心とした「紅衛兵」が各地で活動し、旧勢力や知識人を弾圧
文化大革命の初期には、学生や青年を中心とした「紅衛兵」が台頭し、各地で活動を開始しました。
彼らは旧勢力や知識人を弾圧し、毛沢東の思想を広めるために積極的に行動しました。
党内路線闘争: 劉少奇や鄧小平などの政敵が失脚し、毛沢東の権力が強化される
文化大革命の過程で、劉少奇や鄧小平などの政敵が次々と失脚し、毛沢東の権力はさらに強化されました。
党内での路線闘争は激化し、毛沢東は自身の思想を貫くために強硬な手段を取ることが多くなりました。
経済活動の停滞: 文化大革命の影響で、中国経済は大きな打撃を受ける
文化大革命の影響で、中国経済は大きな打撃を受けました。生産活動が停滞し、経済全体に深刻な影響が及びました。
これにより、多くの人々の生活が困窮し、社会不安も増大しました。
1976年10月: 毛沢東の死去後、文化大革命は終焉を迎える
1976年10月、毛沢東の死去により、文化大革命は終焉を迎えました。
彼の死後、中国は新たな指導体制のもとで、徐々に正常な状態へと戻っていきました。
文化大革命の被害
文化大革命は以下のような被害をもたらしました。
- 推定数百万人の犠牲者
- 経済活動の停滞
- 社会の混乱
それでは順番に解説します。
推定数百万人の犠牲者
文化大革命の期間中、推定数百万人の人々が犠牲となりました。政治的な粛清や暴力行為が横行し、多くの命が失われました。
経済活動の停滞
文化大革命の影響で、中国経済は約10年にわたり停滞しました。生産活動が大きく制限され、経済成長が鈍化し、国全体の発展が遅れることとなりました。
社会の混乱
文化大革命は、中国社会に大きな混乱と破壊をもたらしました。社会秩序が崩壊し、人々の生活が不安定になり、多くの文化遺産が破壊されました。
文化大革命の評価
文化大革命は、中国現代史における悲劇的な出来事として評価されています。
毛沢東の功績の一つと見る向きもありますが、多くの犠牲者と混乱を生み出した負の側面が大きく評価されています。
毛沢東の評価
毛沢東の評価は分かれています。建国の父である一方で、大躍進や文化大革命で国を大変な状況にしてしまいました。
しかし、今のように経済が発展して経済格差も発生した中国では、毛沢東が統治していた頃はみんな貧乏で貧しかったので差がなくてよかったという人もいます。
毛沢東は雀駆除で支持率を落とした
毛沢東は大躍進政策を行って失敗しますが、この原因のひとつは中国国内の雀(すずめ)を駆除したからでした。
毛沢東は当時、農作物の収穫量を上げるために、ネズミ・ハエ・蚊・雀を駆除することを命じます。
しかし、この中で雀は農作物を食べるだけではなく、農作物につく害虫も食べます。つまり、雀がいなくなったことで、害虫の生きやすい世界になり、かえって農業生産量が減ったのです。
毛沢東思想をわかりやすく理解
毛沢東思想は、毛沢東の革命思想を指します。具体的には以下のような特色がありました。
- 一般人も戦力にする人海戦術(人民戦争理論)
- 超大国・大国・非同盟国を3つに分けて世界を見る(3つの世界論)
- 個人よりもみんなの幸せや福祉を重視(大公無私)
- 貧農・下層中農にも政治を理解させて共に行動する(大衆路線)
- 現場や現実から学んでロジックを立てる(実事求是)
- 軍事力が権力を作る思想
- 遊撃戦中心の戦略・戦術を展開
- 農村から手をつけ最後に都市を囲い込むこと
毛沢東思想は時代ごとに内容が変化していますが、中核となっており覚えておきたいのは、中国社会の基盤となる貧農・下層中農を中心にして国の指針を決めること、現場と現実から学んで理論を作り上げること、農村から手をつけ最後に都市を囲い込むことです。
毛沢東の語録や名言をまとめた本がある
毛沢東の語録や名言は書籍「毛主席語録」に掲載されています。毛沢東などのこれまでの著作などから引用され編集され、1967年に出版されました。この本は文化大革命の紅衛兵たちが集会の時に持ち寄るバイブル的な存在になっていました。
また、具体的な毛沢東の名言には以下のようなものがあります。
- 鉄砲から政権が生まれる。
- 政治とは、流血を伴わぬ戦争である。一方、戦争とは、流血を伴う政治である。
- 人間は若くて無名で貧乏でなければよい仕事はできない。
毛沢東と蒋介石の関係
人物 | 所属政党 |
---|---|
毛沢東 | 中国共産党 |
蒋介石 | 中国国民党 |
毛沢東は中国共産党のトップで、蒋介石は中国国民党のトップです。共産党はソ連の思想、国民党はアメリカの思想がベースになっていたので、相容れませんでした。
初期の関係:協力と対立の始まり
1920年代、中国国民党と中国共産党は、北伐軍を共同で結成し、軍閥を打倒し中国統一を目指す第一次国共合作を実現しました。しかし、思想の違いや権力欲のぶつかり合いから、次第に対立を深めていきます。
1927年、蒋介石は上海クーデターを発動し、共産党員を弾圧。共産党は江西省瑞金にソビエト政府を樹立し、武力闘争へと突入します。これが、第二次国共内戦の始まりです。
長期戦と抗日戦争:一時的な和解
蒋介石率いる国民党軍は、圧倒的な軍事力で共産党軍を包囲しますが、共産党軍は巧みな遊撃戦で国民党軍を翻弄します。1
934年、共産党軍は長征と呼ばれる壮絶な移動を成功させ、陝西省延安に根拠地を移しました。
1937年、日本軍が中国侵攻を開始すると、抗日民族統一戦線が結成され、第二次国共合作が再び成立します。二つの勢力は、抗日戦争という共通の敵に対して協力することになります。
内戦再開と国民党の台湾撤退
抗日戦争が勝利に終わった1945年、共産党と国民党は再び内戦状態に突入します。
長期戦となった内戦は、最終的に共産党軍の勝利に終わり、1949年、中華人民共和国が建国されます。
蒋介石率いる国民党軍は台湾へと撤退し、中華民国政府を樹立します。
その後の関係
その後も、中国と台湾は互いを認めず、緊張関係が続いています。近年は交流が深まっていますが、政治体制や国家主権などを巡る問題はいまだ解決されていません。
二人の死後
毛沢東は1976年、蒋介石は1975年に亡くなりました。二人のカリスマ指導者の死後も、中国と台湾の関係は複雑な様相を呈しています。
毛沢東は料理の名前にもなっている
毛沢東スペアリブの由来
毛沢東スペアリブは湖南料理の一種です。
毛沢東は湖南省の出身であり、湖南省の料理を愛していたことから、毛沢東スペアリブという名前がつきました。
毛沢東スパイスの由来
毛沢東スパイスは湖南料理で使うスパイスの一種です。
もともと、湖南料理は香辛料を多く使って味が辛いことが有名ですが、毛沢東は湖南省出身で、湖南料理好きだったため毛沢東スパイスと呼ばれるようになりました。毛沢東スペアリブと同じです。
毛沢東の家族は?
毛沢東の妻
毛沢東は4回ほど以下の人物たちと結婚しています。
- 羅一秀 (1907年 – 1910年)
- 楊開慧 (1920年 – 1930年)
- 賀子珍 (1930年 – 1937年)
- 江青 (1938年 – 1976年)
この中で、江青(こうせい)は中国の歴史上でも大きく時代を揺るがした人物です。
江青は四人組を結成して、文化大革命を主導しました。その結果、中国中の知識人が迫害されて、文化財などは壊されてしまいます。
毛沢東の子供と子孫たち
間柄 | 名前 |
---|---|
父 | 毛貽昌 |
母 | 文素勤 |
弟 | 毛沢民 |
弟 | 毛沢覃 |
一人目の妻 | 羅一秀 |
二人目の妻 | 楊開慧 |
長男 | 毛岸英 |
次男 | 毛岸青 |
孫 | 毛新宇 |
三男 | 毛岸竜 |
三人目の妻 | 賀子珍 |
長女 | 楊月花 |
四男 | 毛岸紅 |
五男 | 毛岸紅 |
次女 | 熊化芝 |
三女 | 李敏 |
六男 | ※生後10ヶ月で死亡 |
四人目の妻 | 江青 |
四女 | 李訥 |
毛沢東の子供たちの中には、生まれても成長せずに死亡してしまったり、里子に出されたりなどした子供もいました。
また、孫には毛新宇(もうしんう)がいて、2017年の第19会党大会代表に落選しています。毛沢東思想から習近平思想への転換期にあるため、落選したとも言われています。
ちなみに、毛沢東は当時の妻であった江青が傲慢であり家族間の権力争いに発展する恐れがあったため、毛新宇に一度も会おうとはしませんでした。
まとめ
今回は毛沢東についてご紹介しました。
歴史上では評価が別れる人物ですが、カリスマ的な思考も持ち合わせていました。
ぜひ、参考にしてみてください。
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