霧社事件をわかりやすく解説!首刈りとは?台湾の反応なども紹介

霧社事件は、台湾で起こった日本軍と原住民の衝突です。

その一方で、日本人と台湾人の両方でこの事件についてあまり話題にしている人はいません。

そこで今回は、霧社事件はどういったことが発生したのか、簡単にわかりやすく解説します。

霧社事件をわかりやすく解説

霧社事件は、1930年に台湾の中部霧社で発生した、日本軍と現地の原住民であるセデック族の武力衝突です。

事件の詳細

直接の引き金になったのは、とある日本人巡査がセデック族の宴に招かれた時です。その時のセデック族たちは、宴のために豚を解体したため手が汚れていました。それを不快に思った日本人巡査はステッキで払って拒否します。

しかし、セデック族にとって宴を断ることは最大の侮辱だったので、セデック族のリーダーだったモーナ・ルダオ(繁体字中国語: 莫那魯道)の長男、タダオ・モーナが日本人巡査を殴打してしまいました。

その後、霧社近辺に住むセデック族たちは、日本政府の政策に反発して武装蜂起を行いました。

毎日新聞によると、日本人側は134人ほど死亡しましたが、先住民側は日本側の攻撃とその後の弾圧で1000人以上が亡くなったとされています。

毎日新聞「政治プレミア」

 台湾が日本に統治されていた1930年10月27日、中部のある集落で先住民が抗日を訴えて蜂起する事件が起きた。山間部で伝…

事件の大まかな発端としては、日本政府が台湾を統治するにあたって、台湾全土を日本の手に納めたいと思っていました。しかし、山間部は原住民が住んでおり独自の文化や風習を保ちながら彼らにはナワバリ意識がありました。

日本政府が原住民の土地を没収して日本化をさせようとした際に反発が起こり、武装蜂起に繋がったと言われています。

なぜ霧社事件は起こったのか

霧社事件は、日本政府が土地を没収したこと以外に以下のような事柄が連鎖して発生したと言われています。

  • 労働環境が悪い
  • 日本人と原住民の女性トラブルがあった
  • 文化や習慣を破壊したこと

日本政府は原住民を森林伐採や運搬などの肉体労働者として扱っていました。特に木の運搬は引きずらずに担いで運ばせていたことにより、かなりの重労働になっていたとされます。

そして、原住民の女性と日本人男性が結婚をして同一化するような政策が取られていました。しかし、結婚生活がうまくいかずに捨てられてしまう現地住民の女性が多かったとされています。

それから現地住民は文化や習慣を大切にしていますが、日本側は統治をするにあたって近代的な生活様式を学ばせました。それまでの伝統的な狩猟や農耕ではなく、平地で水稲農耕を強いられます。結果として独自の文化が薄れていくことに危機感を持っていました。

霧社事件の結果とその後

霧社事件は激しい戦いの末、日本側が鎮圧します。その過程の中でセデック族の指導者であるモンゴルバイなどが自殺をするなど、多数の犠牲者が出ました。

その一方で、事件後は原住民の処遇が改善するきっかけとなりました。それまで「熟蕃(しゅうばん)」などと侮辱的な言葉で原住民は呼ばれていましたが、「高砂(たかさご)族」・「平埔(へいほ)族」などの名称で呼ぶようになりました。

ちなみに、この事件の後日本は太平洋戦争に突入しますが、その時に活躍した高砂義勇隊は彼らのことを指します。

【閲覧注意】霧社事件の写真や画像

霧社事件の写真や画像はインターネットなどでも閲覧可能です。日本語の検索では自粛規制がかかっていることがありますが、中国語で検索すると画像が出てきます。

閲覧注意なので、検索してはいけないとも言われているため、気をつけてください。

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霧社事件と首刈りの関係

首刈りはセデック族の勲章のことです。

狩猟民族であるセデック族の伝統的な価値観に、まわりの民族と争いになった時、敵の首を刈る(出草)ことが勇敢だというものがあります。

一方で、日本統治時代では、野蛮であることから首を刈る行為は禁止されました。しかし、セデック族の反乱によって日本人の中にも首を刈られる人が出てしまいました。

霧社事件の台湾の反応

霧社事件は台湾で起こった最大の衝突ですが、大きな日台の問題になっていません。メディアでも台湾は親日だと言われています。

この背景には、被害を受けたことが少数民族であったことが大きいと言われています。台湾のマジョリティは漢民族であり、都市部に住んでいます。そうした人々はまだ日本統治化であっても同化が進んでおり、少数民族ほど強い不満や事件に巻き込まれませんでした。

だから話題にならず自分の先祖のことであるというような文脈で語られません。

一方で、霧社事件は日本統治時代が終わり、国民党政府の統治に変わってから「日本に対抗を示した勇敢な事件」として扱われました。これは反日感情を利用して国民党自らの統治を正当化するためです。

その後、民主化が進んで台湾の歴史の研究や再評価が行われて客観的に霧社事件について将来に残す取り組みが始まりました。

まとめ

今回は霧社事件についてご紹介しました。

台湾の原住民と日本人がうまく折り合いがつかずに発生したのが霧社事件です。支配する側と支配される側という関係ができれば、いつかぶつかることがあります。

これらの事件を映画化しているのが、セデックバレです。

歴史を見つめるきっかけになれば幸いです。

ぜひ、参考にしてみてください。

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