忘れ去られた最も偉大な親日国|日本とインドの知られざる”黄金時代”

この記事では、日本と海外を行き覧する筆者が私見たっぷりに、日本メディアが伝えない海外ニュースについて解説します。

「次はインドの時代だ」──そんな言葉を耳にする機会が増えました。急成長する経済、膨大な人口、日本企業の進出ラッシュ。確かに今、日印関係は良好に見えます。しかし、あなたは知っているでしょうか。実は日本とインドの”本当の蜜月”は、今ではなく、もっと昔にあったことを。

戦後間もない時代、インドは日本にとって、誰よりも理解ある友人でした。それなのに、高度経済成長という「成功」が、私たちの視線をインドから遠ざけてしまった。そして今、再び日本はインドに接近しようとしています。この歴史を知ることは、単なる教養ではありません。これからインドとビジネスをする人、旅をする人、あるいは国際政治を理解したい人にとって、必須の視点なのです。

かつて「南アジア」と「東南アジア」は一つだった

今でこそ、アジアは「南アジア」「東南アジア」「北東アジア」と明確に区分されていますが、実は戦後しばらくの日本では、インドやパキスタンのある南アジアと、ASEANを構成する東南アジアを一つのまとまりとして捉えていました。

冷戦が本格化し、共産主義と非共産主義という対立軸が世界を分断するようになると、この見方も変化していきます。しかし、変わらなかったものが一つありました。それは、インドが古くから親日的だったという事実です。

サンフランシスコ講和会議を「拒否」したインドの矜持

第二次世界大戦中、日本はインパール作戦でインドに攻め込み、インド側にも被害を与えました。普通に考えれば、インドが日本に対して被害者意識を持っていてもおかしくない。ところが、インドの対応はまったく違っていたのです。

その象徴が、1951年のサンフランシスコ講和会議です。

この会議は、戦後日本が国際社会に復帰するための重要な転機となりました。主導したのはアメリカ。その狙いは明確でした。日本をコントロール下に置き、脅威にならない程度に育て上げ、共産主義への防波堤として機能させる──。

当時のインド首相ネルーは、この構造を見抜いていました。彼は、日本をアメリカ陣営に組み込むこと、軍事目的で沖縄を日本から引き離すことを批判し、結果的にサンフランシスコ講和会議への参加を拒否したのです。

この姿勢こそが、インドと他の連合国との決定的な違いでした。

パール判事の「無罪意見書」が日本人の心を動かした

もう一つ、日本人の心に深く刻まれた出来事があります。それが、東京裁判におけるパール判事の存在です。

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判では、複数の判事が戦争犯罪を裁きました。その中で唯一、インド代表のラダ・ビノード・パール判事だけが、被告全員を無罪とする意見書を提出したのです。

ここで誤解してはいけないのは、パール判事は「日本は正しかった」と言ったわけではないということ。彼が問題視したのは、裁判の構造そのものでした。

事後法の問題

「平和に対する罪」という概念は、戦後に作られたものです。それを過去に遡って適用するのは、法の大原則に反する──パール判事はそう指摘しました。

ビクターズ・ジャスティス(勝者の裁き)

戦争犯罪を裁くのであれば、日本だけが悪いわけではない。アメリカも原爆を投下し、無差別爆撃を行った。なのに、なぜ戦勝国は裁かれず、敗戦国だけが一方的に断罪されるのか──。

パール判事のこの問いは、戦後の国際秩序が孕む矛盾を鋭く突いたものでした。そして日本人にとって、それは深いリスペクトとともに受け止められたのです。

1952年、インドは日本との国交樹立を急いだ

サンフランシスコ講和会議に参加しなかったインドですが、それは日本との関係を断つためではありませんでした。むしろ逆です。

インドは早々と日本との平和条約を結ぶ意向を示し、1952年に国交を樹立しました。その際、インドは驚くべき決断をします。

  • 対日賠償請求を放棄
  • インドに残された日本資産の返還

特に後者は重要です。なぜなら、サンフランシスコ講和条約では日本資産の返還は否定されていたからです。にもかかわらず、インドはそれを日本に返した。この振る舞いが、日本人のインドに対する好感度を一気に押し上げたのです。


1957年、ネルー首相来日──熱狂する日本

1957年、ネルー首相が来日しました。すると、日本の世論は熱狂的に彼を歓迎したのです。

当時の日本には「インドブーム」がありました。鉄鉱石開発などに日本企業が注目し、経済的な関係を深めようとしていた時代です。ガンディーも有名でしたが、ネルーもまた、日本人にとって特別な存在だったのです。

これが、日本とインドの**”黄金時代”**でした。

1960年代、すれ違いの始まり

しかし、この蜜月は長くは続きませんでした。

1960年代、日本は高度経済成長期に突入します。貧しかった日本が、急速に豊かになっていく。一方、インドは依然として貧困に苦しんでいました。

1961年、池田勇人総理がインド(当時のカルカッタ、現コルカタ)を訪れた際、彼はこう発言したとされています。

「インド人は裸で貧しかった。それに対して日本人は裕福だ」

この発言に象徴されるように、日本側の意識が変わり始めていたのです。

首脳会談でのすれ違い

ネルー首相は、自主独立の重要性非同盟主義といった理念を語りました。どこかの陣営の属国にならない、中立を貫く──それが彼の信念でした。

一方、日本側は経済政策や具体的なビジネスの話に終始しました。理念と実利。この温度差が、両国のすれ違いを生んでいったのです。

ネルーの死、そしてインドは「遠い国」になった

さらに残念なことに、1964年、ネルー首相が亡くなります

日印関係をリードしてきた象徴的な存在を失ったことで、日本のインドに対する関心は急速に薄れていきました。

加えて、冷戦の本格化です。ベトナム戦争が激化し、日本の視線は東南アジアへ、そしてアメリカとの関係へと向かっていきました。インドは、次第に日本の視野から消えていったのです。

いつしかインドは、「旅行者が訪れて世界観が変わる、カオスで汚い国」という、ある種ステレオタイプ化された”遠い国”になってしまったのです。

2000年代、再びインドへ──安全保障と経済の視点から

インドが再び日本の視野に入ってくるのは、2000年前後のことです。

当時の森喜朗首相がインドを訪問し、日印関係を重視する姿勢を打ち出しました。ただし、この時期はインドが核実験を行ったことで国際的な制裁を受けており、関係は冷え込んでいました。

その後、小泉純一郎総理の時代に「ASEAN+3」が拡大され、インド、オーストラリア、ニュージーランドが加えられます。この背景にあったのは、中国の台頭です。

巨大化する中国を念頭に置いたとき、インドをいかに引き込むか──それが日本の戦略的課題となったのです。

安倍政権と「自由で開かれたインド太平洋」構想

この流れが最も発展したのが、安倍晋三政権の時代でした。

安倍首相は「価値外交」を掲げ、自由や民主主義を重視する国々との連携を強化しました。その中で、インドはアジアにおける最重要パートナーの一つと位置づけられます。

こうして生まれたのが、Quad(クアッド)という枠組みです。

  • アメリカ
  • オーストラリア
  • 日本
  • インド

経済協力だけでなく、緩やかながら軍事的な側面も含む、戦略的パートナーシップ。これが現在の日印関係の土台となっているのです。

まとめ──忘れられた友を、再び思い出すとき

整理しましょう。

戦後、日本とインドは非常に近い関係にあった。
しかし、日本の経済成長と冷戦の激化によって、インドは忘れ去られた。
そして今、再びインドが日本にとって重要なパートナーとして浮上している。

これは単なる歴史の復習ではありません。

これからインドでビジネスをする人、インド人と働く人、あるいはアジアの国際政治を理解したい人にとって、この”黄金時代”の記憶は、相手を理解するための大きな手がかりになるはずです。

インドは、日本が最も苦しかった時代に、誰よりも公正に、誰よりも温かく手を差し伸べてくれた国でした。その事実を、私たちは忘れてはいけないのです。

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